違和こそエネルギーを生む

2022年10月20日
OSのヴァージョンアップに必要なのは「違和」だ、ということをデビュー当時から書いてきた。二十数年が経ったいま、かつて以上に「差異」や「違和」がエネルギーの元であることを実感する。違う......ということがどれほど大事か、ってことだ。そして人は違うものを同じと見なすことで抽象思考をするが、微細な違いを認識することでエネルギーを得ているので、この両方を同時にやり続けなければならない。「同じに見えて微妙に違う」からその差異によってエネルギー(変化)が生じる。単に大ざっぱに「あれとこれは同じだ」とトポロジーで考えると合理的かもしれないが、エネルギー的には弱くなる。脳は、たいへんエネルギーを使うので省エネをしたがる。ほったらかしておけば「同じこと」をしたがる。「いつも通り」とか「普通」という名の自動操縦に切り替えてしまう。どんな趣味嗜好をもってしても、生き生きとしているためには「違い」を探し続けなければ停滞する。世界は相似だが同じではない。人類的に「違和」の時代に入り、これまでと違う生活様式や、コミュニケーションを強いられている。そこにロシアがとてつもない爆弾をぶち込んで世界は混乱に陥っているが、この激しい「違和」や表面化した「差異」はエネルギーだ。そういう風に捉えてみると、私は地球規模の変化の中でこれまでと違う流れを体験している1枚の葉っぱだ。人間として泳ぎきることは難しいが、葉っぱのように軽くなって浮くしかない。身体よりも実は質量をもっている「念」は「思い=重い」。思いを軽くすれば、この流れに乗れるだろう。思いは言葉になり、言葉は呪術だ。呪術とは「定義」することであり、ある状態に留まらせることだ。別の表現をすれば封印することだ。ひとつのりんごがりんごとして封印され、1枚の葉っぱが葉っぱとして封印される。このすさまじい抽象化は、差別とつながる。差別とは「差」に対して、特殊な評価を下すことだ。微細な差を無視して「人種」などの大ざっぱな抽象化を用いて大ざっぱな「差異」に対して特殊な評価を与える。評価の根底にあるものはあまり根拠のない「思い=重い」である。とてつもなく大ざっぱで抽象的な世界を構築して生きていることに気づくと、微細なものが微細なものとして感じられる。無限の相似のなかの差異が変化を生みだしエネルギーを回しているこの世界は、留まるものは何もなく、ただ無限の差異によって生き生きと脈動している。昨日と同じ今日はなく、今日は唯一無二、そして永遠。いい天気です。